ちょっと前のわたしたち

【No.204】11月2日 Taka * 【No.205】11月9日 Meche
【No.206】11月16日 Maki * 【No.207】11月23日 Sara
【No.208】11月30日 むく

No.208

11月30日 むく(マドリード)

最近、子供の成長振りに眼を見張ることがよくある。

この間まで何を言っているのか判らないことがよくあった。
会話能力の遅れを危惧したこともあったのだが、最近はちゃんと意味が通じる会話をするようになった。 また、一旦話し始めるとなかなか止まらなくなり、圧倒されることもしばしばである。

我が家では日本語を使っているが、学校(小学校の幼児部)ではちゃんとスペイン語で会話をしている。 スペイン人の子供に話しかける時はちゃんとスペイン語に切り替えているから、たいしたものだと感心している。

ただ、最近のスペイン語の乱れの影響をもろに受けているのには感心できない。 スペイン語で独り言を言うのは良いのだが、耳を傾けていると「ポルファ」とか「プロフェ」と言っている。 このような使い方を覚えて欲しくなくて、その都度「ポル・ファボール」「プロフェソール」に訂正させているが、学校で周りが使っているのでどうして自分だけ直させられるのか判っていないようだ。 このような風潮は非常に嘆かわしく、かつ耳障りである。せめて自分の子供にはきちんとした言葉遣いを習慣付けたいと思っている。

食事に関して言うと、我が家ではスペイン人の家庭で使用している類の離乳食を使ったことがない。 少なくとも家内や子供と知り合ってからは。親と同じ食事を少しずつ与えていたと記憶している。そのおかげかどうか知らないが、現在はまったく親と同じ食事である。 まぁ、魚は骨を取ってから与えるように気をつけているが、つい見逃してしまったような小さな骨を自分で口から出している。 骨をのどに詰まらせることはないんじゃないかと思わせるぐらいに注意深いのか神経質なのか。

食べ物の好みは定期的に変わるらしい。先週好んで食べていたものを今週は嫌いだということはよくあることである。 心配せずともしばらくすればまた好きになるようである。

面白いのは僕と好みがまったく同じだということである。 トマト、レンコン、里芋などは取り合いになってしまう。 家内に言わせると寝ている姿やいびきのかき方などもそっくりらしい。 血の繋がりはなくても一緒に暮らしているとこうも似てしまうのか、一人でにやついているこの頃である。



No.207
11月23日 Sara(グラナダ)

初体験レポート “足音の録音”

 フラメンコの踊り手として活動している私にとって、先週貴重な体験のできる仕事が入った。 フラメンコの歌の最後の盛り上がる所に私のサパテアード(足音)を録音しようというのだ。

 CDの題名はまだ知らないが、企画はグラナダの若手のアーティストを集めてCDを作り、全国にグラナダのアーティストを知ってもらう、というもので、お金は市が出しているらしい。 その若手のアーティストのメンバーに私の旦那、芸名“JESUS FAJARDO”がも擢され、ソレアと、シギリージャという歌を歌う事になった。 旦那のアイデアと推薦でシギリージャの歌の最後に足音を入れるということになった。

 企画者から電話がかかってきてから録音日まで1週間もなかったので、弱音を吐いていた。 心の中では喜んでいるのに、こういう時にいろいろ弱音を吐いてみるのが私の嫌な癖だ。

 フラメンコの曲に足音を入れるのは既に有名アーティストが何人かトライしている。 私から見て一番凄いと思うのは伝説の歌い手カマロンが最後のアルバムでフアン・ラミレスという踊り手と録音したブレリアというノリの良い曲だ。 これは、たぶん最初に足音を入れる試みをしたもので、大成功だった。 新鮮だったし、かっこよかった。

 次に痛快なのは、あのギターの神様、パコ・デ・ルシアが確かホアキン・グリロとやったアレグリアスという曲。 この2曲に関しては足音を入れて臨場効果をだすばかりでなく、その足音がパーカッションの役目もして実に小気味よく、カッコよく仕上がっている。

 ファルキートもディエコ・アマドールと録音しているし、サラ・バラスもディエギート・シガラのアルバムで共演している。 この2つの後者に関しては、完璧な作りだが前者2つほどの効果は得られていない、と私は思う。 他にも多少は足音が録音されているだろうが、数は少ない。

 ここで私のような日本人の踊り手が二番煎じの事をしていったいなんの意味があるのだろうと、訳の分からない言い訳に逃げていく。 友人に話すと皆、そんなチャンスはめったにないからやっておけ、と言う。 結局は自信がないのだ。 シギリージャって曲についてどこまで理解して足音を入れられるのだろう。 見せる踊りではない、聞く踊りなのだから、音作りだってしなくてはいけない。 その足音だって録音されちゃうのだから汚い音が一つでも入ったら一生の汚点とか、思った。 自分の汚点ならまだしも、旦那の歌の最後の盛り上がりを台無しにしたら一生責められると思った。

 2日間くらいぐちぐちしていたが、いっこうに中止になる気配はないので、やむなく猛勉強し始めた。 できるだけやって “これじゃあダサいから中止”っていわれたらそれで実力不足と納得しよう、とやっとポジティブな気持ちになれた。 そう、現場でダサい、って言われるのが怖かったのね。

 いろいろなシギリージャの曲を聞きまくって、シギリージャを踊っているものも見まくって、とにかく歌の盛り上がり部分を足音で効果をつける音作りの工夫を勉強した。 大体勉強したあと、旦那が何の歌を歌うのか聞いてそれに関して実際音を作っていった。 作ったあと大体いいかなと思ったけれど、何人かの歌い手や、踊り手に聞いてもらってまちがった解釈をしていないかどうか、効果的かどうかアドバイスをしてもらった。

 ある踊り手には、細かい音を入れすぎるから、細かい音を省いてシンプルな音できれいでインパクトのある音に仕上げていった方がいい、と、私の作った音の中からかかとの音を省いてくれたりした。そんなこんなで録音当日、非常に緊張して出かけていった。

 ギタリストのラモン・デ・パソは乗り気だった。
「歌に足音入れるなんて新しいじゃないか、先にシギリージャを録音しよう」とまで言った。
  内心、あー、あとでがっかりしませんように、と思った。
  で、実際録音を進めていくと、本番に強い私の旦那は、本番の録音で打ち合わせとは全く違う歌を歌いまくり、しかもそれが大成功となった。 どちらかというと、十八番はもう1つの曲ソレアのはずなのに。 歌の長さも全然打ち合わせとは違ったので、その場で音つくりを変更しなくてはいけない羽目になったかとちょっと青くなりながら練習していたら、事情をすばやく察知してくれた録音技師の方が「歌が変わってしまったならこのシリーズの録音はあと2〜3日やっているから音作りをゆっくり検討して3日後に上からかぶせて録音するといいよ」と言ってくださったので「あー助かったーーー」と思った。 この録音技師の方、若いが音楽、フラメンコに関してもなかなか解っている、話がツーカーなのだ。 それもそのはず。 あとで聞いたら、天下のエンリケ・モレンテ先生の音響さんもやっているそうだ。

 さて、もう3日間与えられたので、足音をさらに練習する時間もできたわけだ。
3日間練習しまくった。 当日、録音室に入ったら緊張しまくる自分が見えるので必要以上にやった。

 さて、当日。約束の時間の1時間前から準備運動を続けてすぐに踊れるようにしておいた。 私は体が温まってないと必要以上に自信のない足にミスがくるのだ。 いよいよ本番。イスラエル・ガルバンが使用したという板が録音室に用意されていた。
  大きなヘッドホンをつけて音楽を聴いてその上に自分の足音をのせていく。 いつもとは逆で難しい。 いつもは自分がテンポをある程度決められるいわば指揮者の役目なのに。

 最初は、ヘットホンで聞こえる音楽と自分の足音の音量の調整が自分にとってはやりにくく、何度か見失った。 冷静に音量を調整してもらいながら、テイクを2〜3度取った。

 外の人たちが何を話しているのか聞こえない。 一人きりの録音室は孤独だった。 怖くなると足音が外れまくった。 何度も練習したことを思い出し、恐怖に走る心と闘った。 練習では100%自分の実力は出せた。ここで緊張や、恐怖で実力が出せなくてどうする、と自分に言い聞かせながら、音楽を聴くことに集中していった。 6〜7回目のテイクを取ったあと、急に外から「OK〜〜〜〜〜〜!」という声が聞こえた。約15分だったらしい。

 外に出たら皆がグーサインを出して "Buen trabajo"(よくやったね)と言ってくれて、ほっとした。 録音を聞かせてもらったらまあまあの出来だった。 一つちょーーーっとだけ遅れてる音のところで私が渋い顔をしたら、すかさず音楽技師の人がこれはあとで、調整しておくから、といってくれたのでますますほっとした。
  ずるいことだが、録音とはこういうことができるのだ。 便利、助かったと思った。

 その後、技師の人と休憩を取ったら、あるグループが来て1曲6分の曲を録音するのに8時間スタジオを使って、あーでもない、こーでもない、と練習をし始めてしまったそうだ。 挙句の果てにその曲は使えない仕上がりらしい。 付き合わされるほうは大変だと言っていた。 私のことを別に誉めていたわけではないのだが、必要以上に準備、練習はしておいてよかったと思った。

 先ほど、私の足音の出来はまあまあ、と書いたが、私にしてみたら上出来、なのだ。
 カマロンやパコのには足元にも及ばないが、でも、まあまあ、なのだ。
そう、私は、ファン・ラミレスではないし、ホアキン・グリロでも、サラ・バラスでも、ファルキートでもない。私は、石川亜哉子、なのだ。

  彼等と比べて焦ったり、だからってこれしか出来ん、と開き直る必要もない。
2004年の等身大のJESUSと私の作品を永遠に録音として残す事ができたのだ。 良い経験になった。 しかも、いい年して、グラナダの若手アーティストのCD企画に入れてもらったのだから得したね。 皆様の手にもこのCDが届きますように。

 

No.206
11月16日 Maki(横浜)

 毎年、この時期になると学生時代の恩師(ゼミの教授、F先生としておこう)のことをふと思い出す。

 在学中からずっと、毎年11月にF先生のゼミのOB・OG会が行われる。(先生の誕生日が11月、という単純な理由)
  今年も案内が来たけれど、場所も遠いし平日の夜だし、仕事が忙しくてとても無理。 それに、卒業してもう何年もたつと、同期だった友人は仕事やら家事育児やらで殆ど出席しなくなる。 研究室で助手をしていた唯一の“常時出席メンバー”である同期生も今秋から留学してしまったはずなので、出席したところでおそらく知り合いは殆どいない。 話ができる知り合いがいないOB会ってのも、寂しいものだ。 昨年は行けなかったから、久し振りに先生に会いたかったけど、仕方がない。それに、大勢の人がいる中で私だけ先生を独占することもできず、ゆっくり話なんてできないし。

 F先生の専門は西洋近代史で、もともと、私がスペインをはじめヨーロッパの文化全体に興味を持ったのもF先生の授業がきっかけだった。授業は厳しいけれどいつも興味深く、大好きだった授業のノートは未だに捨てられずに持っている。 自分の専門分野以外でも本当に博学で指導範囲が広く、語学堪能でお洒落で、でも全然気取っていなくて、ゼミのコンパなどでは居酒屋で一緒に飲んで盛り上がる、普通のおじさま、だけど素敵なおじさまなのだった。

 私が卒業する年の年賀状には、「いつになってもどこにいっても学ぶ心と好奇心だけは忘れないように」と書いてあった。 そして、スペインに行く、と話した時には、「今しかできないいろいろなことに挑戦しなさい」と。 滞在中にも手紙やメールをくれて、スペインに関する自分の著書を送ってくれたり、帰国してからも、一昨年はスペイン関連のイベントの案内を出したところわざわざ見に来てくれたりもした。

 ここ数年は、年賀状にも、「スペイン人のように明るくネ」「地中海ペースで、ゆったりと頑張って」「いつかゆっくり、スペインの話ができるといいね」なんて書いてあったりする。
  在学中よりも、こうして個人的に近況を報告したり、年賀状や時候の便りを出すようになってからのほうが、ずっと先生との距離が近くなった気がする。
  もし卒業後に全然関わりを持たなかったら、きっとF先生も数多い学生の1人として私の名前と顔をぼんやり覚えているくらいだったかもしれない。

 そんなことを考えていたこの1〜2週間、なぜか先生のこと、学生時代のことをふと思い出させる些細な出来事が続いた。 ちょっとしたTVのニュースだとか、たまたま見かけた本の内容だとか、直接は関係ないことばっかりなんだけど。 そしたら、ものすごーく、先生に会って久し振りに話をしたくなった。 とりあえず、今月後半にあるスペインイベントの案内がてら、手紙を出してみよう。 多忙な先生だから、顔を出してもらえるかどうかはわからないけど。

私も、「いつかゆっくり、スペインの話」を実現できる日を心から楽しみにしているのだ。



No.205
11月09日 Meche(京都)

ちょっと変なお話。

 悲しい出来事をきっかけに数ヶ月間で8キロ痩せた私は、精神的にも肉体的にも少し弱ってたみたい。

 暑い季節にびっくりするほど虫に食われたのは仕方ないとしても(体力が落ちているかららしい)、人がたくさん見えるようになってるのに最近気がついたときは、どうしたらいいのかわかんなくて少し笑っちゃった。
夜の歩道に男の人が立ってたり、車の前を女の人が横切ったり。交差点やビルの中、あっちこっちに人がいる。
“彼ら”は一見普通の人と変わらないけど、ちょっと存在が薄い。鮮やかな色の服を着ている人もいるんだけど、なんだかふわっとしてて視線はぼんやり空を漂ってる感じがする。

 友人にこの話をしたら「怖っ!!!弱ってそういう世界に近づいたんちゃう?!」とひかれたけど、別に何か嫌な事をされるわけでもないから“私のまわり、ちょっと人口密度が高くなったなぁ・・・”なんてのほほ〜んとしてた。

 存在の濃〜い“生きてる”友達もわさわさ増えて、より周囲の人口密度が高くなった頃、私の誕生日が近い事を知ったその“生きてる”友達の1人が、わざわざ〔お念珠(数珠)屋〕さんにオーダーしたプレゼントをくれた。
「健康にいいから」と渡されたブレスレットはまるでうちの三毛猫のような配色で、身につけたら“彼ら”が見えなくなった。さすが老舗のお念珠屋。健康以外にも効果絶大!!!

 “彼ら”が見えるようになって悪いことは何も無かったけど、それでも見えてしまったのは良いことではなかったのかもしれないな、なんて思う。
けど、今も“彼ら”はふわっと街のどこかにいるのかなと思うと、不思議とせつない気持ちになる。



No.204
11月02日 Taka(東京)

 10月7日から21日までスペインを巡ってきた。出発の成田空港では予定していたフライトが2時間以上遅れ、スペイン滞在中に引きずるかも知れなかった仕事をほぼ終えて出発することができた。 ラッキー! しかしオランダ・スキポール空港での乗り換えには間に合わず、バルセロナに夕方到着の便が夜到着の便に変更になってしまった。 ちっ!

 今回は、バルセロナからバレンシア、アリカンテ、そしてアンダルシアを巡ってマドリードから帰国という旅程だった。 ホテルに到着後、少しだけ近所を散歩し、近くにあったバールでグラスビールを飲んだ。カウンターに置いてあった紙ナプキンにまだ決まっていないスケジュールをあれこれ書いてみてはニヤリ、スペインに居ることを実感した。

 翌日、バルセロナをひとしきり散策した後で、バレンシアにいる友人を訪ねて彼女の住むハティバという町へ向かった。 丘陵の頂上に建つカスティージョをはじめ、なだらかな斜面に広がる旧市街と新市街。静寂の中の夜の散策、そして真っ青な空が広がる日中の散策は、初めてスペインを訪れた時のようなワクワク感を思い出させてくれた。 「あの道もこの道も全部かわいい」 この先には何があるのか、その角を曲がれば何が見えるのか、続く小路の先を目指してワクワクする気持ちでいっぱいになった。

 夕方、友人の車でアリカンテの友人宅を目指した。 昨年のクリスマスに訪ねたときは市内にある家に滞在したが、今回は海の前にある夏用の家へ。 到着したその夜は遅くまで友人の息子とビンゴで戦った。翌日、紺碧の海を眺めながらママお手製のチューロスをいただき、再び息子とビンゴに白熱。 しかし、子供相手に2ユーロもすってしまった。 アリカンテには2泊ぐらいするつもりでいたが、次に行くマラガまでの交通手段があまりにも不便なことを考え、1泊した次の夜には長距離の夜行バスでマラガへと出発した。

 マラガの友人ファミリーは3人の息子と1人の娘、そして両親という6人家族。 ありがたいことに、久しぶりの再会を心待ちにしていてくれ、オスタルにでも泊まろうと思っていた私を早朝のバスターミナルで待っていてくれた。 家に着くとはじめに長男の部屋に通され、「今日からここがTakaの部屋よ」とその長男をママは部屋から追い出した。 彼の目は点になっていたが、快く他の兄弟の部屋に自分の枕を運んでいった。 どちらかというと私はオスタルにでも滞在しながら気ままな旅行者でいたいタイプだが、この家族が大好きなことと、あまりの居心地の良さからマドリードへ出発するまでの一週間を過ごさせてもらった。

 とはいえ滞在中は、レンタカーで3泊4日のドライブ旅行にも出かけた。 まずは、グラナダに住んでいたときの同居人を訪ねてアンテケラへ。 その後、友人と共に、広大なオリーブ畑が広がるウミジャデロという村まで、病床に伏しているそのママの見舞いに行った。

 翌日はアルコス・デ・ラ・フロンテーラを目指し車を発進させた。 アンダルシアをロードレーサーで巡っていた日本の友人夫妻がちょうどそこにいるはずだった。 日本を出発する前、「スペインのどこかで会えたら合流しよう」と適当な約束をしていたのだ。 彼女らの予定ではゴール地点がアルコス・デ・ラ・フロンテーラだったので、私の中では合流するならそこでと思っていた。 しかし、出発して間もなくのカフェテリアで私の携帯電話が鳴った。 彼女らは予定を変更しこれからグラナダにバスで向かうと言う。

 急遽、高速をグラナダ方向へと変更した。 彼女らは夕方に到着すると言っていたので、途中でアルチドナやロハという小さな村に立ち寄り、ブラブラと街歩きなどしながらグラナダへの道へと戻った。 そして夕刻前には高速を下り中心街へ。そ のときは自分のドライブ旅行がとても順調なものに思えていた。

 しかし街の中心に着いてからがひどかった。 一方通行がやたらと多い。 「ちっ、また同じ道だよ……」という言葉が2回3回では事足りず、5回6回と出てくる。 「私は右に曲がりたいのよー!」と叫んだところで標識を無視するわけにはいかない。 「二度とこの道は通るまい」そう呟いた数分後に再び同じ道。 ようやく駐車スペースを見つけたときには高速を下りてから2時間が経過していた。 ぐったりである。 しかし、友人夫妻と合流した途端に疲れもふっとび、その晩は3人でヌエバ広場近辺のバールからアルバイシンのバールまで計7軒を巡ってヘロヘロになってしまった。

 夫妻とはその翌日の昼食までを共にし、私は再びドライブの旅に。 シエラ・ネバダの山々を左に望む高速を飛ばし、海岸線に点在する白い村、フリヒリアナとサロブレーニャを訪ね、そしてアルムニェカルという海の街でオスタルに泊まった。

 翌朝は、桃やバナナをかじりながら海沿いの街にいくつか寄って、次第に車をマラガへと進めた。 最後の寄り道は私の大好きなペドレガレホと言う海前に広がる小さな町。 お気に入りのレストランのテラスに座り、焼きイワシと一人用のパエリアを注文した。 馴染みのあるカマレロのおっちゃんがやってきて、「3年か3年半ぶりじゃないか?」と声をかけてくれた。 大感激である。あ〜来てよかった! 心からそう思えた瞬間でもあった。

 今回、バレンシアからマドリードまで、多くの友人たちと再会でき本当に充実した旅になったことをとても嬉しく思う。 Gracias!


 

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